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          | 木曽方面/本部とその周辺の
 ご案内
 当会本部は、木曽義仲のお膝元“木曽日義の里”にあります。
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          | 徳音寺義仲公・巴御前・小枝御前・四天王らの供養墓
 
 仁安3年(1168)、義仲が母小枝御前を葬ったと伝わる寺であり、義仲血縁者ならびに主従の菩提寺となっている。境内にある供養墓(写真下)には、義仲の墓塔を中心に据え右に母小枝御前と今井四郎兼平、左に巴と樋口次郎兼光の墓塔が並ぶ。昔、徳音寺は今の場所よりも山際にあったが、蛇抜けによって流され、現在地に移転した。その頃までは「柏原寺」(はくげんじ)と呼ばれていたらしい。
 ここは木曽七福神毘沙門天霊場、中部四十九薬師の二十二番札所としても知られ、訪れる人も多い。
 また、この寺には「宣公郷土館」が昭和43年に建立されている。小さいながらも、館内には義仲の守り本尊と伝わる兜観世音菩薩をはじめ、義仲関連の品々や江戸時代の民具などが展示されていて、よき資料館である。
 
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          | 巴が淵 義仲とともに幼少期を過ごし、義仲と生涯をともにした愛妾巴御前の名にちなんで“巴が淵”と呼ばれる。この淵に棲む竜神が巴に化身して義仲を守り続けたという伝説や、その他多くの伝説が残る場所。昭和の初め頃までは、木曽川が形づくる深い淵に、神秘的な渦が巻いていたという。写真に見えるJR中央西線の鉄橋が造られた折、土砂が堆積して水の流れが変わり、大きな渦はなくなったとのこと。また大正時代まではこの淵の下に「小枝ヶ岩」といって天辺に松の木をいただいた巨岩があったそうだが、大水により跡形なく崩壊した。
 近代になってから、地名「巴が淵」は省略されて「巴渕(ともえぶち)とも呼ばれているようだ。
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          | 旗挙八幡宮館跡の碑
 旗挙八幡の大欅
 治承4年(1180)、義仲が高倉宮以仁王の令旨により平家追討の旗挙げをここでしたことから、「旗挙八幡宮」と呼ばれている。拝殿脇にそびえる大ケヤキは樹齢900年ともいわれ、義仲を見たであろう唯一の生あるもので、幹の周囲は10メートル以上もある。この樹は「日本の古木」の一つに数えられてもいる。
 
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          | 南宮神社 義仲の祈願所といわれる『南宮神社』。
 義仲がこの地に館を構えたとき、美濃国関ヶ原の南宮大社を分祠勧進したものという。
 ここは大宝年間に大和朝廷が街道(大宝古道)を設置した折、その工事の関係役所が置かれたところとも伝わり、古道はこの神社の脇を抜けている。
 旗挙げ八幡宮とは至近距離に位置している。
 
 
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          | 義仲館 徳音寺のほど近くにあり、義仲の短くとも壮絶な生涯を、絵画や人形を使いわかりやすく解説している。展示物の中に義仲の遺品は散見できないが、北陸から京都周辺の義仲ゆかりの地の写真をパネルにして紹介しているので、子どもにも理解しやすい。義仲関連書籍も、多くはここで入手可能。もちろん当会発行の『史學義仲』各号や当会推薦図書『浮世絵で見る義仲・義経の生涯』なども販売している。
 住所 〒399-6101 長野県木曽郡木曽町日義290-1電話 0264-26-2035
 開館時間 午前9時〜午後5時
 休館日:毎週月曜日(月曜休日の場合、火曜日)
 入館料:大人(高校生以上)300円・中学生以下無料
 
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          | 中原兼遠供養墓(林昌寺内) 林昌寺は、義仲を幼少から養育した中原兼遠の菩提寺である。中世、何度か廃寺となりほとんどの記録は失われたが、古くは「洗林寺」といっていたようである。この寺脇の山手に拡がる墓地の中程に、兼遠の墓といわれる供養塔がある。石塔自体は江戸時代末期のものであろう。古い文献には、林昌寺のこの供養塔のことは記載がなく、先代住職今井兼安師が近隣から出土した石塔をそれに見立てて祀ったようであるが、兼遠を深く敬愛する証であろう。
 なお、この寺の本尊仏「釈迦如来像」は、文化財的価値が高いと有名である。
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          | 手習天神(山下天神) 源平盛衰記に「義仲を木曽の山下に隠し……」とあるように、義仲はこの地で幼年期を過ごしたという。ここに養父中原兼遠の館跡と伝わる場所があり、その近隣には学問の神として有名な京の「北野天満宮」から兼遠が勤請したと伝わる通称“手習天神”こと「山下天神」がある。この神社は兼遠館地の隅に位置していたとも伝承されている。
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          | 兼遠館跡 木曽川に支流正沢川が直角に交じ合うところの高台が、兼遠の居舘跡と伝えられ、上記の手習天神とは地続きとなっている。現在は一面田圃ばかりで往時を偲ぶことはできないが、地形から要害地であったことは想像に難くない。近代になって建てられた碑の場所は、それを囲むこんもりとした笹竹の叢(くさむら)が目印となっている。
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